6月30日
中国語の初級講座に通い始めた。今日は初日。
中国語を習いたいと思う理由はいくつもあるけど、もっとも大きな理由が中国語の本当の挨拶を知りたいということ。2年前に台湾で個展をした時、ギャラリーや店先で挨拶したがあまり反応が良くなかった。発音も悪いし、私の緊張した面持ちが全面に出ていたせいだと思う。たぶん本当の「ニーハオ」があるはずなのだ。
こんなに近い距離にいるのに自己紹介もできないことが、いまさらながら不思議に思えてきた。飛行機で14時間かかるアメリカやさらに遠いフランスでは、それぞれの言語で自己紹介できるようになったのに、地図のアプリでちょっとピンチアウトするだけで画面上に中国の形が見えるほど、こんなに近い国の言葉を少しも知らないのはなぜだろう。
あと一つの理由は上海で予定している個展があるということ。ただこれは何度も延期していて、いまだに開催の目処はたっていない。延期の理由は日中関係の悪化で、いまの状況が続く限りきっと開催はできないだろう。この延期については、延期になったこと自体が悲しいのではなく、こんな個人まで国家同士の関係が影響があること。それに対してギャラリーも私もなす術がないということが悲しい。その悲しみを紛らわすためにも中国語を学びたいと思った。
6月29日
制作が遅々として進まない。そんなときほど英語の勉強が進む。中学英語からやり直しているけど、かなり楽しい。私がやりたいのは探偵ナイトスクープなんであって、NHKスペシャルではないと気づく。
仕込んでいた完熟梅のシロップ漬けが食べごろだったので味見をしてみたら、脳が揺れるほど甘かった。種ありの分量で計っていたけど、もしかしたら種無しで再計算するべきだったのかもしれない。スプーンで掬って一度落として、スプーンにまとわりついたシロップとヨーグルトと混ぜて食べた。
6月28日
朝からマクドに行って、企画書を書いた。「君の名前で僕を読んで」を見返す。他者と同化する話かと思ったら、自己をはっきりと認識できるようになる話かもと思う。私の名前って呼ばれることはあっても、呼ぶことってないし。
6月27日
昨夜は急に地震があったり、台風の影響で大雨だったりで、あまり眠れなかった。気圧のせいかひたすらに体調が悪い。フランス語の勉強を再開することにした。仏検の4級と5級に合格した喜びでこの一週間ほどは調子が良かった。まだ自己採点の段階なので、本当は不合格かもしれない。ただ三ヶ月で4級にたどり着いた事実は、これほどまでに励ましになるのかと驚いた。夜に昨日探した小磯良平の本をネットで見つけて購入した。
6月26日
朝から意味論の夏季講座に申し込んだ。対面で受けられるのには席の限りがあるようで、申し込み日時には遅れないように予定を入れていた。個展の直前なので、そのときの自分に余裕があるか分からないけど、zoom越しの講義では理解できないと思ったので対面を希望した。
午後はお茶の水の歯医者へ。仕事帰りに寄るには便利だけど、休みの日に行くにはなかなか面倒。今読みかけの本は分厚めのものが多いので、身軽な本をもっていきたいと夫の本棚を物色する。安野光雅の『絵のある人生』を読むことにした。
せっかくお茶の水まできたので、ずっと欲しいと思っている『小磯良平全油彩画集』を探すことにした。置いてそうな古本屋が数軒あるので周ってみようとした一軒目で早速見つけた。即決できる値段ではなく、高さも重さもあるので持ち帰れないということでひとまず退却。他の店でも小磯のリトグラフ集があって、手が届く値段だったけど、今は油彩画集のために貯金することにした。けど結局、たまたま見かけたD・スペンダーの『ことばは男が支配する』を購入した。「私たちの社会で、本当に名前を持っているのは男だけだ」という一文があり、夏の個展のための制作のために参照できそうだと思ったのだ。私はある意味で当事者として、この言葉を理解できる。けれど、この体感と名付けの構造には大きな隔たりがあるように感じる。ではなぜそれを明文化しないといけないかというと、作品を作るためと説明するためであり、これを個人の感傷や結婚の制度批判に回収されると大きな誤解を生んでしまう。けれど今の私はそれ以外の言葉を持っていない。
退店際に知り合いを見つけて声をかけようとして、直前に違う人だと気づいた。他人の空似にしては似過ぎていたけど、身長が足りなかった。さぼうるの近くに立ち寄ったので入ろうと悩んでいると、お店の人に声をかけられる。「入られますか?」と聞かれるが、「入りません」と答える。ナポリタンとかハンバーグの気分ではなかったので、丸亀製麺にした。喫茶店は誰かと行きたい。
6月25日
濱口映画にまだ浸っていたいので、『寝ても覚めても』と『ドライブ・マイ・カー』をみた。前者は初めて観たけど、姫路の男はそんな喋り方をしないという些細なひっかかりであまり集中できなかった。後者は観るのが4回目くらいだけど、観るたびに印象が変わる。今回はなぜか、私はみさきと同じ身長なんだなという視点で観てしまった。
何も知らなかった相手とともに時間と場所を共有することで、自分も知らなかった自分を相手に照射する形で知ることができるというのは『急に具合が悪くなる』との共通点で、カーヴァーの『大聖堂』とも似通っている。そこに希望を感じずにはいられない。次は『偶然と想像』を観てみたい。
人と限界まで話すことで、もはや話すことがなくなり、ついには興味もない相手の靴のサイズまで聞く。でもその靴のサイズからまたしても私の知らない相手のことをさらに知る。そんなことができる相手は滅多に現れないけど、全く現れないわけじゃないことを知っている。
6月24日
『急に具合が悪くなる』を観た。なんとなく満席で観たいと思い、サービスデーである水曜の夜に映画館にかけこんだ。案の定、席はある程度埋まっていて、すぐ隣にも座る人がいた。手にはノートとペンを握っていて、考えながら観ているのか5秒だってじっとしていない。3時間これは辛いぞと席を移動しようかと何回も思ったが、移動したことを相手に悟られるのが嫌で、結局この多動な人のいる空間を受け入れることにした。
劇中の簡単なフランス語を聞き取れたことが嬉しかった。”Moi,c’est Mari.” ” Je suis fatiguée. “ ”c’est magnifique.” ”Nous avons…”と仏検対策で学んだ単語が出てきて、3ヶ月前には一語も知らなかったフランス語をごくわずかながら聞き取れたことの喜びは、この映画と共鳴するようだった。
言語もコードも違う相手を知るということと、となりで不可解な動きをする人の隣に座ることは、同じくらい難しい。そもそも知ることは不可能なことなのかもしれない。けど、映画が終わる頃には、この多動な動きに親近感を覚えるまでになっていた。
福尾匠の『置き配的』を読んで、日記をつけてみようと思った。日記も引用することのできる文章であることを、アーティストの日記を読む中で知っていたはずなのに、自分には当てはまらないと思っていた。文章はだれでも簡単に書ける。楽器を弾いたり、スポーツしたり、絵を描いたりはある程度の訓練がいる。でも文章は誰にだって書ける。だけど、そのことによって、「文章は選ばれた人だけが書けるもの」という考えが私の中で膨らんでいった。その選ばれた人のやるという行為を、もう一度できるものとして捉え直したいと思う。日記を1ヶ月続けてみて、書けそうなら続ける。仕事のこと、会った人のことは極力書かない。何もない日々という何もなさに、自分はどのような文章を書くのか知っていきたいと思う。