top of page

​6月25日

 

濱口映画にまだ浸っていたいので、『寝ても覚めても』と『ドライブ・マイ・カー』をみた。前者は初めて観たけど、姫路の男はそんな喋り方をしないという些細なひっかかりであまり集中できなかった。後者は観るのが4回目くらいだけど、観るたびに印象が変わる。今回はなぜか、私はみさきと同じ身長なんだなという視点で観てしまった。

何も知らなかった相手とともに時間と場所を共有することで、自分も知らなかった自分を相手に照射する形で知ることができるというのは『急に具合が悪くなる』との共通点で、カーヴァーの『大聖堂』とも似通っている。そこに希望を感じずにはいられない。次は『偶然と想像』を観てみたい。

 

人と限界まで話すことで、もはや話すことがなくなり、ついには興味もない相手の靴のサイズまで聞く。でもその靴のサイズからまたしても私の知らない相手のことをさらに知る。そんなことができる相手は滅多に現れないけど、全く現れないわけじゃないことを知っている。

​6月24日

『急に具合が悪くなる』を観た。なんとなく満席で観たいと思い、サービスデーである水曜の夜に映画館にかけこんだ。案の定、席はある程度埋まっていて、すぐ隣にも座る人がいた。手にはノートとペンを握っていて、考えながら観ているのか5秒だってじっとしていない。3時間これは辛いぞと席を移動しようかと何回も思ったが、移動したことを相手に悟られるのが嫌で、結局この多動な人のいる空間を受け入れることにした。

 

劇中の簡単なフランス語を聞き取れたことが嬉しかった。”Moi,c’est Mari.” ” Je suis fatiguée. “ ”c’est magnifique.” ”Nous avons…”と仏検対策で学んだ単語が出てきて、3ヶ月前には一語も知らなかったフランス語をごくわずかながら聞き取れたことの喜びは、この映画と共鳴するようだった。

言語もコードも違う相手を知るということと、となりで不可解な動きをする人の隣に座ることは、同じくらい難しい。そもそも知ることは不可能なことなのかもしれない。けど、映画が終わる頃には、この多動な動きに親近感を覚えるまでになっていた。

福尾匠の『置き配的』を読んで、日記をつけてみようと思った。日記も引用することのできる文章であることを、アーティストの日記を読む中で知っていたはずなのに、自分には当てはまらないと思っていた。文章はだれでも簡単に書ける。楽器を弾いたり、スポーツしたり、絵を描いたりはある程度の訓練がいる。でも文章は誰にだって書ける。だけど、そのことによって、「文章は選ばれた人だけが書けるもの」という考えが私の中で膨らんでいった。その選ばれた人のやるという行為を、もう一度できるものとして捉え直したいと思う。日記を1ヶ月続けてみて、書けそうなら続ける。仕事のこと、会った人のことは極力書かない。何もない日々という何もなさに、自分はどのような文章を書くのか知っていきたいと思う。

bottom of page